七五三といえば千歳飴、千歳飴といえば七五三です。
甘いものが貰えるというだけで子ども心に嬉しかったことを思い出します(笑)。
それだけ切っても切れない七五三と千歳飴。いつごろ、どういう理由で、千歳飴は誕生したのでしょうか。
本日は、千歳飴の由来について、詳しくお伝えしていきたいと思います!
千歳飴の形にこそ意味がある!
七五三は、子どもが無事に成人することが難しかった時代に、無事に七五三の年を迎えたことを感謝し、子どもの健やかな成長を願う行事。
その七五三で食べる千歳飴には
- 千歳(ちとせ)→ 千年
- 細く長い形 → 長生き
と、子どもの長寿を願うという意味があります。
名前も重要ながら、細長い形に“長生き”の意味がありますから、今も千歳飴には、直径は15㎜以内、長さは1m以内という基準があるのだそう。
食べているうちにベトベトしてくるあの細長い形に大事な意味があったのですね!
千歳飴の由来は江戸時代
千歳飴が誕生したのは江戸時代のことですが、初めに売り出した人については2つの説があります。
- 1615年(元和(げんな)元年)に大阪の平野甚左衛門が江戸に出て売り始めた
- 1688年~1711年(元禄(げんろく)宝永(ほうえい)年間)に浅草の飴売り七兵衛が売り始めた
真偽のほどは、はっきりしませんが、有力視されているのは飴売り七兵衛の方です。
なぜなら、七兵衛が売っていた飴は、
- 「千年飴」という名称だった(これが転じて「千歳飴」になった)
- 長い袋に入れて売っていた(現在の千歳飴の袋と通じる)
など、現在の千歳飴に繋がる共通点があるからのようですね。
個人的には、どちらの説も江戸の初期なのが興味深い点です。戦国の世から泰平の世に移り、まだまだ貴重だったお砂糖を使った飴が、子どものお祝いに売り買いできるようになったことが分かります。
現在では、千歳飴は袋に2本というのが一般的です。しかし江戸の頃は、七五三を迎えた子どもの年齢と同じ本数の千歳飴が袋に入れられていました。
子どもの年齢の本数の千歳飴を親戚や近所の人と分け合って、皆で子どもの成長と健康を願い、縁起を分けあうという意味もあったようですよ。
千歳飴の袋も吉祥づくし
縁起物の千歳飴を入れる袋に描かれているのは、やはり鶴亀や松竹梅などの縁起が良い図柄ですね。おかげで千歳飴の袋は、一目で千歳飴と分かるようなものばかりです。
各図柄には、こんな意味があるのですよ。
鶴亀は「鶴は万年、亀は千年」と長寿の象徴
- 鶴 → 鶴のよく響く鳴き声は、天まで届くようだと「天上界に通じる鳥」と考えられました。不老長寿を象徴する吉祥の鳥です。
- 亀 → 亀は、不老長寿の地と言い伝えらえる「蓬莱山(ほうらいさん)」に住む仙人のお使い。知恵と長寿を象徴する生き物です。
冬の寒さを耐える松竹梅は力強い生命力を象徴
- 松 → 常緑樹の松は、「長寿・不老不死」を象徴
- 竹 → 多くの根から新芽を出す竹は、「子孫繁栄」を象徴
- 梅 → 新春によい香りを漂わせる梅は、「気高さ」を象徴
子どもが七五三の年を迎えたことが大変喜ばしかったことが、袋の図案からもよく分かりますね。
では、最後に千歳飴の製造方法をご紹介しましょう。
千歳飴の製造方法
千歳飴は、地域によって製造方法に少しずつ違いがありますが、ここでは基本の製造方法をご紹介しますね。
- 千歳飴の作り方
- 砂糖と水あめを約140℃まで熱して煮詰める
- ①を鍋から取り出して平らにして冷ます
- 何層にも折り返せる機械(製白機)にかけて、飴に空気を混ぜ込んでいく
- 細長く伸ばし、適当な長さに切りそろえる
飴に空気を混ぜ込むことで、透明の飴が乳白色に変わり、千歳飴独特の食感が生まれます。
さらに、格式のある飴屋さんでは、完成した千歳飴を神社でのお祓いを受けたのちに販売されるのだとか。素晴らしいですよね。
実際に、「京あめ処 豊松堂」という飴屋さんが千歳飴を作る過程を動画でアップされていましたのでご覧ください。
豊松堂は、京都の飴屋さんですが、平安神宮をはじめ、全国の社寺に千歳飴を納められているのだそうです。
また、動画でも出てましたが、ねじりの入った千歳飴は、豊松堂さんだけができる製法だそうです。神社で貰われた千歳飴にねじりが入っていたら、豊松堂さんのものだと気づいてくださいね(笑)。
まとめ
七五三とは切っても切れない千歳飴。七五三は、子どもの成長を感謝し、これからも健やかに育つことを祈る行事です。
そして、千歳飴には、
- 千歳は、1000年という意味
- 細長い形は、長生きする
と、子どもの長寿を願うという意味があります。
子どもの長寿を願う千歳飴が誕生したのは、江戸時代の初期の頃。
- 1615年(元和(げんな)元年)に大阪の平野甚左衛門が江戸に出て売り始めた
- 1688年~1711年(元禄(げんろく)宝永(ほうえい)年間)に浅草の飴売り七兵衛が売り始めた
という2つの説があります。
七兵衛の売っていた飴が「千年飴」という名前で現在の千歳飴に変わったと言われており、浅草の飴売り七兵衛説が有力のようですね。
江戸の当時は、七五三を迎えた子どもの年齢の本数分が袋に入れられていました。千歳飴を親戚や近所の人と分け合うことで、子どもの成長を共に祈り、縁起を分け合うという意味もありました。
子どもの時分、千歳飴の細長い形が、食べているうちに手がベトベトになるので苦手でしたが、あの細長さが重要だったのですね。もっと早くに(うん十年前(笑))に知りたかったです!