子供の頃は、いろいろな行事が楽しみで待ち遠しかったですよね。
数あるイベントの中で、七夕は、クリスマスや誕生日のようにケーキがあるとかプレゼントがもらえるわけでもないのに、特別だったような気がします。
なぜ特別な感じがしていたのだろ?と考えてみて、
- 短冊に願い事を書いてお星さまに祈ることが嬉しかった
- 織姫と彦星の伝説が子供心に悲しかった
のではないかと思い至りました。
本日は、純真だった子供時代と懐かしみつつ(笑)、七夕にまつわる織姫と彦星の伝説と由来についてお伝えしていきますね。
実は複数ある七夕の由来
さて、七夕の由来といえば、てっきり織姫と彦星の物語のことと思うところですが、いくつかの伝説や習慣が由来となっています。
詳しくは後ほど見ていきますが、七夕の由来となっているものをここでご覧いただきましょう。
- 織姫と彦星の星祭の伝説
- 女子の裁縫・習字の上達を願う乞巧奠(きこうでん)という行事
- 棚機つ女(たなばたつめ)の伝説
- お盆にご先祖様を迎える準備の習慣
上の2つは、中国を起源としていて、下の2つは日本を起源とする由来です。
そして、それぞれ関係性が深いので、2つで1つと言えなくもないところがあります。
では、じっくり見ていきましょう。
織姫と彦星の星祭の伝説と乞巧奠の行事
まずは、七夕とは切っても切れない織姫と彦星の伝説と、その伝説から始まった乞巧奠(きこうでん)の行事の説明です。
ほとんどの人が、七夕は、織姫と彦星の夫婦が、天の川を渡って年に1回会える日と知っていることと思います。
- 織姫は、織女星(こと座のベガ)
- 彦星は、牽牛星(わし座のアルタイル)
のことですが、この2つの星の距離、実に16光年。
遠距離もいいところですよね(笑)。
織姫と彦星が遠距離恋愛になった理由
織姫と彦星が1年に1回しか会うことを許されず、16光年も離れた場所で暮らさなければならなくなった理由は、2人がお互いに夢中になり過ぎて他のことが手につかなくなったからなのです。
ここからは、物語調で進めていきますね。
「星祭の伝説」はこんな物語
天の川のそばに住む天の神様には、機織りが上手な織姫という娘がおりました。
天の神様が、年頃になった織姫に、よいお婿さんを探していたところ、彦星という働き者の牛飼いの若者がいることが分かりました。
幸いにも織姫と彦星もお互いが気に入り、2人はめでたく夫婦となります。
ところが、結婚してからというもの、2人は仲が良すぎて全く仕事をしなくなってしまったのです。
彦星の飼っていた牛はやせ細り、織姫が機織りをしないので神様の衣がボロボロになってしまいました。
見るに見かねた天の神様が注意をしても、お互いに夢中な2人はいっこうに働こうとしません。
とうとう天の神様もお怒りになり、天の川のこちらとあちらに2人を引き離してしまいました。
引き離された2人は、あまりの悲しみに前のように働くどころではありません。
その様子を見た天の神様が、以前のようにまじめに働くのであれば1年に1度だけ天の川に橋をかけて会うことを許されます。
2人は、ようやく元気を取り戻し、1年に1度の再会を心待ちに一生懸命働くようになったのでした。
事情(?)が分かると、身から出た錆といいますか、そこまで夢中になれるとは羨ましいといいますか、1年に1回の再会を楽しみに364日を過ごすなんて健気といいますか。
子供のころに、知らなくてよかったと思ってしまいました(笑)。
織姫と彦星が天の川を渡った方法
七夕の日に雨が降ると、天の川の水かさが増えてしまい織姫と彦星が会えずに泣いているからだと言いますよね。
新暦7月7日は、七夕なのに梅雨明け前で雨の降るときの方が多いのが不思議でしたが、それもそのはず、七夕の日は、本来は旧暦7月7日、新暦にすると8月の半ばの時期なのです。
8月半ばでしたら、あまり雨も降りませんし、夏空に天の川がよく見える時期ですよね。
天の川をはさんで明るく輝くベガとアルタイルは、古代中国の人たちの想像力を大いに刺激したのでしょう。
星祭の伝説では、織姫と彦星は、カササギ(白鳥座)が天の川に翼を広げて作る橋を渡って再会します。
どこまでもロマンチックな話ですよね。
女子の裁縫・習字の上達を願う乞巧奠
機織りの名手である織姫(織女)は、中国では裁縫を司る星です。
やがて、星祭の伝説から始まったのが乞巧奠(きこうでん)の行事です。
七夕には、女性たちが供え物と先に5色の糸をかけた竿を用意して、織女星に女子の裁縫や習字の上達を願うようになりました。
この乞巧奠の行事が星祭の伝説とともに日本に伝わり、七夕(たなばた)となっていくのです。
棚機つ女(たなばたつめ)の伝説と先祖を迎える準備の習慣
多くの行事がそうであるように、乞巧奠(きこうでん)の行事も中国から伝わった当初は、宮中行事として盛んになります。
乞巧奠が日本に伝わったのは、奈良時代ではないかと考えられています。
織女星と牽牛星に供え物をし、詩歌や音曲、裁縫の上達を願う星祭が宮廷や貴族の間で行われるようになりました。
一方、日本では古くから七夕の時期に神様を迎えるための棚機つ女(たなばたつめ)という禊が行われてきていました。
神様を迎える棚機つ女の伝説
棚機つ女の禊行事とは、水の神様に豊作を祈り、人々の穢れをはらうために、選ばれた乙女が神にささげる着物を機屋(はたや)にこもって織るというものです。
水の神様が天から降りてこられるのは、七夕と同じ時期の旧暦7月15日。
禊行事では、水の神様をお迎えするにあたり、棚が用意された神聖な機屋が水辺に用意されます。
村から選ばれた乙女が、機屋に一晩こもり、神様に捧げる布を織り棚に収めて捧げ、村の厄災をはらってもらいます。
”伝説”とされるのは、機屋にこもる乙女は、水の神の子を身ごもり、乙女自身も神になると考えられていたため。
この棚機つ女(たなばたつめ)の禊行事が、乞巧奠の行事と融合し、七夕を”たなばた”と呼ぶようになったと言われています。
お盆にご先祖様を迎える準備としての習慣
明治に新暦が導入されて以降、お盆は新暦8月15日、七夕は同じく新暦の7月7日という地域が多くなりました。
そのため、七夕がお盆の準備でもあったと言われても、日にちが開きすぎていてピンときませんよね。
新暦が導入される前の公の暦である旧暦では、7月7日が七夕で8日後の7月15日がお盆でした。
お盆は、先祖の霊を迎える仏教行事です。
仏教が伝わると、棚機つ女の禊が、先祖を迎えるための清めの行事という性格も帯びるようになっていきます。
今でもお盆には、先祖の霊を乗せるために、なすびやキュウリで牛馬を仕立ててお供えしますが、旧暦のころは七夕に準備していたのです。
棚機つ女が水辺にこもっていたことから、七夕の夜には、必ず髪を洗う、家畜に水浴びをさせるといった習慣も生まれました。
有名な青森県の「ねぶた祭」も、睡魔を川に流す「眠り流し」という七夕の禊行事と先祖の霊を迎える準備だったものが発達したお祭りなのです。
七夕行事が庶民にも広まったのは江戸時代から
星祭から発達した裁縫などの上達を願う乞巧奠の行事が中国から伝わり、日本古来の棚機つ女の禊行事を結びついたのが、七夕の由来です。
七夕の習慣として5色の短冊に願い事を書いて笹につるすようになったのは、江戸時代に入ってからです。
江戸時代、七夕は幕府の公式行事である五節句の一つに選ばれます。
すると、庶民の間でも七夕が広まり、女子の裁縫上達を祈る星祭が行われるようになりました。
ただし、宮中の星祭では、
- 神聖な木である梶の葉に和歌をしたためていた
- 5色の絹の布を笹竹にかけていた
のですが、それを簡略化して5色の短冊にしたのは庶民ならではの知恵ですね。
まとめ
短冊に願い事を書いて笹につるして飾る七夕の日は、織姫と彦星が天の川を渡って1年に1度だけ会える日として子供のころから親しんできた日です。
よく考えてみると、なぜ織姫と彦星が会える日に願い事をするのでしょうか。
その由来は簡単にまとめると次のようになります。
- 織姫と彦星は仲の良い夫婦でしたが、お互いに夢中で全く働かなくなりました。
それを見ていて怒った天の神様が2人を引き離し、1年に1度だけ会うことを許されたのが七夕の日です。これを星祭りの伝説と言います。 - やがて、女性たちが機織り上手の織姫に裁縫や習字の上達を願う乞巧奠(きこうでん)という行事が、中国で生まれました。
- 中国から乞巧奠の行事が日本に伝わったのは奈良時代です。
宮中で七夕の日に、牽牛(彦星)と織女(織姫)に供え物をして、詩歌・音曲・裁縫の上達を願う星祭が行われるようになりました。 - ”たなばた”と呼ばれるようになったのは、日本に古くからあった棚機つ女(たなばたつめ)の伝説からです。
棚機つ女は、水の神様にささげる布を織るために選ばれた乙女のこと。水の神様に豊作を願い、村の穢れをはらう禊の行事でした。 - 旧暦では七夕とお盆の日にちが近く、お盆に先祖の霊を迎える禊や準備は七夕に始められていました。
- 江戸時代に七夕が幕府の公式行事となり、庶民の間でも裁縫の上達を願って七夕の星祭が行われるようになります。
宮中が5色の絹の布を飾っていたのを模して、5色の短冊が飾るようになりました。
七夕には、どんなお願い事もOKと思っていましたが、実は織姫さまに裁縫や習字の上達をお願いする日だったのですね。
私ははっきり言って字が上手ではありませんので、ウン年ぶりに七夕の短冊書いてみようかなという気になりました(笑)。